シングルマザーハワイへ行く

その他日々の事

どん底だったシングルマザーにハワイがくれた奇跡

そういえば、ハワイに関することをやり始めた理由を書いてなかったですね。今回はいつもと違って、ハワイが好きなわけなどを書いてみようと思います。

若さゆえにしてしまった失敗を乗り越えてこれたのは、ハワイの癒しとフラが教えてくれた感謝の気持ちでした。

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初めてなのに懐かしい

社員旅行がハワイやグアムだったという方は多いのではないでしょうか。これほど経済が低迷する前はよくあることでした。

空港から出たときになんとなく感じたのが「あれ?ここ知ってる?」のように、初めて来た感じがしなかったこと。どこか懐かしくて、でも初めてで。

でもそう感じたのも一瞬で、社員旅行でしたのでそんなことは忘れて同僚たちとホテルへと移動しました。

忘れもしないクィーンカピオラ二でした。それだけはなぜか覚えています。

まだ日本語を話せる人がそれほどいない頃の話です。もう詳しい事は忘れてしまいました。

リピーターとなる

そんな懐かしさもあってか、その後は友人たちと他の国に行こうという話も出るのですが、結局は「やっぱりハワイに」を繰り返していました。

しまいには「トモダチ、シンセキアメリカジン?」と入国審査で聞かれるまでに(笑)

それほどまでに魅了したもの。それは、見たことのない青い海、心地よい風、美味しい料理。ですが、はっきり「これだから!」という理屈はないのです。

【昭和感あふれる写真…】

【アイランドコロニーのラナイ】

アラワイ運河沿いに建つ高層コンドミニアム「アイランドコロニー」のラナイ(バルコニー)で景色を眺めるのが大好きでした。オーシャンフロントのホテルではないけれど、夜景がとてもきれいで今でもまた泊まりたいと思っています。

当時東京でOLをしていましたので、海と言えば江ノ島、鎌倉、逗子。でも、私はあまり好きではありませんでした(海に入るという意味で)。

若いころはブランド品を買ったり、今は無き旧インターナショナルマーケットプレイスでよくわからないものを買わされたり?それも今となっては楽しい思い出です。

毎年のように行っていたハワイですが、結婚し出産と共に生活が変わりました。

突然シングルマザーとなる

私はあまり結婚に興味がなかったので、今でいう婚活のようなことはしておらず遅い結婚でした。29歳で、「この人の子供なら産んでもいい。」と思えた初めての人でした。

お付き合いした男性が全然いなかったわけではないのですが、その元夫と初めて会った時「この人と付き合うことになるんだ。」という予感というのかな、がありました。そういうことを感じる人っていますよね。

だから、それまでお付き合いした人とは比べ物にならないくらい大好きでした。大好きすぎて毎日が不安でした。「今日帰ってくるのかな。」そんな空気感がある人で。

当時は残業が当たり前で、夫も夜10時でも会社にいることがしょっちゅうでした。子供を身ごもってからもそれは変わらず、初めての妊娠はとても不安で、でも夫は帰ってこない。会社に行っている方が安心でした(8ヶ月まで働いていました)。

夫が休みの日だけが心から幸せを感じる時間でした。

そうこうしているうちに夫の問題が発覚しました。具体的な内容は伏せますが、とても正常に暮らせる状態ではなくなりました。子供が産まれるのに、です。

シングルマザーに仕事はない

その時私はわかっていなかったのです。シングルマザーは雇ってもらえないということを。

私も働きに出てなんとか生活を維持しようと求職活動をしていたのですが、そもそも子供が小さいと面接すらしてもらえないんですね。それまで築いたキャリアなど全く意味がありませんでした。
大切なのは「保育園から電話が来た時、代わりに行くおばあちゃんがいるかどうか。」でした。
そんなことは全く想像していなかったので、自分のプライドが音を立てて崩れていきました。
腹の底から悔しかったですが仕方なく、希望など関係なく、とにかく雇ってくれる仕事をなんとか探しました。しかし今度は保育園に空きがなく、民間の託児所のようなところにひとまず預けました。
民間は高額ですから、収入の半分ほどが託児所代となり、赤ちゃんを連れて電車通勤は体力的にも非常に大変でした。男性って席を譲ってくれないんですよね。ずっと抱っこして立っている私に席を譲ってくれるのは大抵年配の女性でした。本当にありがたかったです。
そして、今思えばその託児所はあまり環境が良いところではなく、子供は毎朝泣きながら預けられていました。託児所が見えてくると泣き始めるのです。本当に申し訳なかったと思っています。
そのうちに公営の保育園に入れたので自転車で保育園まで行けるようになりました。今度の保育園はちゃんとしていて、子供は泣かずに通園できていました。保育参観もありましたし。
しかし、どうしても子供は熱を出したりしますよね?そして親にも移るんです。もちろん夫が会社を休んで世話をするなどできない時代でした。
そうこうしていると会社からパートの契約期間の延長はできないと言われてしまいました。

実家に帰るしか選択肢がない

もう限界でした。子育てと夫の問題で追い詰められ、当時住んでいたマンションの5階から飛び降りようと毎日考えていました。ですが、実行はやはりできませんでした。

そして夫と離婚し、私は子供を連れて実家に帰ることにしました。それが山形です。(昔の写真を見ると実年齢より10歳は老けていました!)

山形では子育ての環境は良く、すぐ保育園に入れましたし仕事も見つかりました。女性も働いて当然という風潮でした。しかしそれは給料の低さの問題でもありました。

正社員で額面16万円。それでもその地域では良い方でした。あまりの安さにここでも悲しくなりました。だって東京でパートをしていた時の給料が12万でしたから。

男性でも20万なんて行けば高給取りです。だから共働きでないとやっていけないということでした。

しばらくは実家で生活し、ある程度落ち着いてきたころ公団に申し込んで、子供と2人で生活することにしました。実家の存在は大きく、何かあれば両親が子供の面倒をみてくれました。

しかし、普段は子供と二人きり。大人なら話が通じるけれど、保育園児と二人きりの生活は正直ストレスがたまりました。会社も結構ブラックでしたが、地方は仕事がそれほどないので辞めるわけにいきません。

会社の建て替え工事でハワイ

そんな中、ある時会社の改装工事をするという事で10日ほど全員休みになりました。これは行くしかないですよね!?(笑)

その頃はHISのチャーター便が仙台空港から安く出ていましたので、子供と二人でハワイに行きました。もう年長さんだったので、ある程度自分のことができたというのもあり、タイミングはちょうど良かったです。コツコツ貯めていたお金だから贅沢はできないけど、行ければいい!そう思いました。

田舎なので「子供と二人で外国!?」とかなり驚かれていたようです(笑)両親は「お金がもったいない!」と言っていましたが、会社が10日も休みになるなんてないですよね?なんとしても行きたい!そう思いました。

私にとっては第二の故郷に帰る感覚なので「海外旅行」ではないのです。「やっと帰ってこれた!」そんな気分でした。

子連れなので行動範囲と時間は限られましたが、広い海を見て、泳ぎ、アラモアナでシェイブアイスを「綺麗だね!」と言いながら食べたり、十分リフレッシュできました。

【今より10kg以上痩せてた頃】

【お人形セットでご満悦】

子供は初めてのホテルの大きいベッドに大喜びしていました!そうですよね、私も大きいベッド、嬉しいです!(笑)そして買ってきたバービー人形で遊んでいたのを覚えています。

夜出かけられないので、ビール片手にホテルのテレビで「暴れん坊将軍」を私は観ていました(笑)昔の時代劇、よくやってましたね。今はどうなんでしょう。

東京に帰りたい

しばらくは田舎で暮らしていましたが、時々「東京に帰りたい。」と思っていました。だって本来は田舎が嫌いで東京に出たのだから・・・。そして両親に「子供と東京で暮らす。」と掛け合いましたが、言うまでもなく猛反対されました。

普段温厚な母が血相を変えて反対したのには驚きました。「それこそおまえが熱を出したら誰が子供の面倒をみるんだ!仕事はどうするんだ!」と。中学生や高校生なら自分でできるでしょうが、まだ保育園児の頃でした。

今でも東京に帰りたい思いはありますが、年齢的に諦めています。時々ふらっと行っています。

自営業への道のり

子供が小さいうちは、合わない会社に忍耐で務めてしましたが、ついに体に異変が出るようになってしまいました。

腰がものすごく痛い。何もしていないのに痛い。

湿布・腰痛ベルト・整体院・整形外科クリニックと思いつくもの全て試しましたが全然治らないんです。クリニックではどこも悪くないと言われましたが、痛いものは痛い。

そして藁にも縋る思いで、霊視のようなことができる人をたまたま紹介され、事情を話すと「それはストレスだから病院に行っても治らないよ。」と。その時はストレスが原因で身体に不調が出るなんて知らなかったので驚きました。

さらに彼は「あなたの癒しの場所は日本じゃないよね・・・ハワイ?かな?行ってくれば治るよ。」と続けました。「仕事も海外に関係してる方が向いてるね。」と。

私は特別そういう人を妄信するタイプではないのですが、この時ばかりは信じてみようかと思いました。そして「行ってきな♪」と、会社を休んで行けと言われました。

そう言われても、前述したように改装工事で休みになったわけでもないし、有給などくれるような会社ではありませんでしたから、かなり躊躇しました。

しかし彼は「何とかなるから行っておいで!」と背中を押してくれました。

私にとっては有給下さいと言うのは物凄く勇気が必要でしたが、身体がもう悲鳴を上げていましたからなんとか交渉し、安いツアーに子供と直前予約でき、腰痛ベルトを巻いた状態で飛行機に乗っていきました。

・・・ハワイに着いたら腰痛はなくなっていました。

ハワイアン雑貨カフェOPEN

そうなるともうそこの会社にはいられません。もちろん優しい人もいましたし、楽しい事もありました。しかし、今思えばあの腰痛は転職のサインだったのではと思います。

腰痛がすっかりなくなり、もはや会社勤めはしたくない、大好きなハワイアン雑貨カフェをやってみようと物件を借り、準備を始めました。

女性に喜ばれるお店が作りたかったのです。

それは、いつも助けてくれたのが女性たちだったから。

初めての子育てで心細かった時救ってくれた女性たちに感謝したいと思いました。直接感謝できるわけではないけれど、世の中の女性たちの楽しみの一つになればという思いからでした。

その最中に起きたのが3.11東日本大震災です。できるところは自分でやろうと、確かペンキ塗りのようなことをしていたと思います。震災のことは詳しくは書きませんが、物資や備品が届かず取引先の建物は津波に流され、という状況での開店準備でした。

だから、開店準備にかなり時間がかかってしまい、あまり華々しく開店もできずそっとオープンしたような感じになってしまいました。大変だったけれど『自分の店』と思えば少しも辛くはありませんでした。

お客様がこない

震災の影響は大きく、なんというか「開店します!」という宣伝もしづらい雰囲気だったため集客ができず困り果てていました。そんな時に出会ったのがフラでした。偶然にも隣のテナントさんがフラの生徒さんで、一緒に習わないかと誘ってくれました。

それからは、念願のフラを習えて嬉しくて、生徒同士も仲良くなりお店にも顔を出したりしてくれました。この頃は色々な出会いがあり、今でも懇意にしていただいている方がたくさんいます。

しばらくして震災の影響は落ち着きました。しかし、地方であったこと、私が経営に未熟だったこともありなかなかお客様は増えず。

『マラサダ』『パンケーキ』を専門店から仕入れて販売するも世間ではまだ知られていない頃。「ドーナツとどこが違うの?」「ホットケーキのこと?」と、ハワイに行ったことのある人にしか理解されませんでした。

ならばと、ガーリックシュリンプ、モチコチキン、バター餅などハワイに関する様々なメニューを取り入れたり、トロピカルドリンク、かき氷などを試しましたが経営は赤字でした。

今ならみんな知ってるメニューですよね。

SNSがない時代、広告といえば折込チラシでした。とはいえ、結局は私の能力不足です。

当時はフラのドレス代を払えなかったり、先生には大変ご迷惑をおかけしました。

ハワイアンフェスティバルへの道のり

この後「神様っているのかもしれない。」という出来事が続きます。

「もう資金もなく限界だから閉店せざるを得ない」と思っていたころ、ふと「そういえば山形にフラのイベントらしいイベントってないな。」ということに気づいたのです。

好きな人はみなさん仙台や福島に見に行っていたのです。私もそうでした。見ているうちに「山形の女性って、綺麗な人が多いのに見てもらう機会がお祭りだけなんてもったいない!」と思うようになったのです。

そう、呼ばれるのは地域のお祭りなどか施設への慰問など。それはそれでよい事なのですが、ステージイベントがないのです。

「じゃあ、ないならやってみようか?」と友人にボソッとつぶやいたのです。

それが転機となりました。つぶやいただけなのに話がどんどん進んでいったのです!(笑)まるで見えない誰かに背中を押されるように。「いつやるの?」「どこでやるの?」とせかされるようになり。

私だってステージイベントなんてしたことがありません。「私が実行委員長やるの!?」と言いながらも計画を進めていきました。

もちろんゲストを呼ぶお金も、施設料もありません。というか、フラ教室ってどのくらいあるの?状態でした。

たまたまあった助成金

資金面で全く用意できませんでしたので、これは無理だろうと思っていた時に友人が「助成金あるよ?」と教えてくれました。たまたま会場使用料が免除されるという助成金があったのです。

イベントをやる時に費用面で大きいのが会場費、音響照明さん、ゲスト出演料ですよね。その中の会場費が免除ならばますますやるしかなくなり・・・(笑)

助成金を得るために第一回目にやったこと。

  • 実行委員会設置(なぜか自然に集まりました。)
  • 会場費・音響・照明費用算出(なぜか知り合いの中に音響照明さんを知っている人がいました。)
  • ゲストさんギャラ交渉(なぜかお客様の中にバンドさんの知り合いがいました。)
  • フラ教室さん出演交渉(なぜかみなさん引き受けてくれました。)
  • フライヤー等印刷物製作費算出(実行委員の中に作れる人がいました。)
  • お手伝いスタッフ人数確保
  • 出店ブース店舗募集
  • 協賛企業募集
  • 司会者依頼

上記の数字を出し、チケット代を決め損益計算をし助成金の申請をしたら通りましたので!開催が決定しました。

それが『第一回置賜ハワイアンフェスティバル』です。

それからは怒涛の日々が続き、関係各所に連絡をし、フライヤーデザインの打ち合わせと出来上がったフライヤーを手分けして配布して回りました。

自然と、それほど聞かなくても何をやればいいかはわかっていましたので、開催近くまではとにかく宣伝して回りました。

開催が近づき、出演者さんの曲目が出そろったら、リハーサルスケジュール調整、香盤表作成、ステージ見取り図作成(この時場ミリというものを知る!)を打ち合わせをしながら行いました。

私達がそうしている間に、各フラ教室の皆さんもチケット販売や宣伝に協力してくれました。中には「出演料をもらえる」と勘違いしている生徒さん達もいたようですが、生徒さんはプロダンサーではありません。

とても悲しかったこと

私がフラフェスティバルをやると言った時に、私のフラの先生が「うちは出ません。」とかたくなに出演を拒んだのです。てっきり一番に協力してくれると思っていたので、驚きと悲しみで何とも言えない残念な気持ちでした。

今でも何故拒んだのかわかりません。生徒仲間も残念がっていましたが、先生の言うことは絶対なのです。

先生は先生なりにその頃はなにかあったんだろうなと、今は何も特別な思いはありませんが。

もう一つは、「家族の理解が全く得られなかった。」ことです。これは単純に田舎だから両親がフラについて全く知らなかったことに起因しているのかもしれません。

起業した時もそうですが、どんなに頑張っても母には伝わりませんでした。それどころか、「そんなもの遊びでしかないから、いいから会社員に戻れ。」の繰り返しでした。

フラの先生がどれだけ努力しているかを知っている私にとって「遊びだ」と言われることは非常に心外でした。

それは現在までずっと続いていて、私の心の傷は何歳になっても癒えていません・・・。

やればできるものだ

そうこうしているうちに開催前日となり、場ミリや音響照明さんと打ち合わせをしたりしていました。細かい事を言えば、控室にそれぞれのハラウ名を書いた紙を貼ったり、早着替えのスペースを作ったり、出演者さんにバックヤードツアーをしたり。

コンサートホールの、イベント前のあの独特な雰囲気ってわかりますか?

私はあの何とも言えない雰囲気が好きです。ホールに響き渡るオテアの音に魂の鼓動を感じ、優雅なアウアナの曲に癒され。

これはスタッフの特権というか、照明さんが色々試してるところなんて普通は見れないですよね?とても面白かったです。

リハーサルで真剣に生徒への指示を出す先生方の姿には本当に尊敬しました。

そして、ステージが少しでも華やかになればと、とあるフラの先生がヤシの木の飾りなどを貸してくれました。謝礼を渡したのだけれど、帰る時に「これは成功のお祝いね」と、お祝いという形でそっくり返してくれました。なんて粋な方だろうと感激しました。

本番当日

我ながらよく本番を迎えられたと感心します。出店ブースの準備が始まりました。この頃は滅多に山形にフラショップさんが来ることはありませんでしたから、大盛況でした。地元のお菓子屋さんなども並び、遠方からのお客様がお土産で購入されていました。

そして開演時間になる頃には、毎回そうなのですが「お客様いるかな・・・?」と舞台袖からそーっと覗き、ドキドキしていました。あの開演前のざわざわした感じも好きです。

準備の時間は走り回って各種対応に追われていましたが、始まってしまえばあとは司会さんにお任せして・・・気づいたのです!自分が正面から見れないことに!

舞台袖で待機していないといけないので、横からしか見れないのでした!Σ(゚д゚lll)ガーン

そこは全然考えていなかったので・・・残念でしたが、出番直前の皆さんの様子などが見れて良かったのかなとも思います。

表情が硬いですね

そうして最後に実行委員長挨拶をしたのですが、この頃は人前に出るのが嫌で、「挨拶しない。」とごねておりましたが、そうもいかないようでメモを見ながらなんとか挨拶をしていました。

この時は、本当に色々な人にお世話になり、支えられ、心の底から感謝が溢れてきました。大盛況で終わり、本当にやって良かった!

終わってからスタッフで打ち上げに行きましたが、途中から私爆睡したらしいです。全く記憶がなくいつの間にか次の日家で目が覚めたんです。叩いてもゆすっても起きなかったらしいです。最後までお世話になりました。

イベント抜粋

その後は段々と喋りにも慣れ、メモがなくても喋れるようになりました。人間というのは学習するのですね。フライヤー制作もサイト制作もできるようになりました(今はサイト制作の講師もしています)。

ステージイベントだけでなく、ディナーショー形式のメレフラなどもこの後行うようになりました。

順不同になってしまいますが、出演下さった皆様、ゲストの皆様、ほんの一部ではありますが掲載させていただきます。ありがとうございました。

 

 

そしてその後

イベントは毎回盛況いただきましたが、お店の方は全くダメでしたので閉店することになりました。その後はパートをしながら時々上記のイベントをやったりして、なんとか暮らしていました。※現在はパートは辞め、事業一本でなんとかやっています。

イベントの段取りも慣れてきたので、それほど大変ではなくなりました。

そのパートがあまり忙しくなかったので、以前から興味があったリボンレイを習ってみようと思い、モアナコアというハワイを拠点に活動しているリボンレイの教室から教材を購入し、インストラクターの資格を取得しました。

また、フェスティバルで古賀まみなさんのあまりにも美しいフラに魅了され、東京の教室にしばらく通っていました。落第生だったけれど、貴重な経験となり、今もフラをする上での指針とさせていただいています。

まとめ

私にとってハワイ、フラは、苦しい時にいつもいつも救ってくれるものでした。救ってくれた人も、フラ関係のかたでした。本当に感謝しています。

そして、苦しかった時、その最中は「なんで私がこんな目に・・・」とばかり思っていましたが、私に非が全くなかったわけではないことに後から気づきました。

相手を思いやる心、自分の意見だけを押し通すのではない事、起きる全ての事に感謝すること。

それは自分に余裕がないとできなくなるんですよね。フライベントをやることで随分人として成長できたと思います。本当に感謝しかありません。

イベントに関しては、私はそろそろ潮時かなと思っています。それは、コロナで一旦ストップしたこと、それ以降は以前に比べてハワイアンシンガーのコンサートなどが増え、他で踊る機会も増えてきたのです。

もう、私がやらなくても誰かがやるでしょう。

山形の女性は本当に美しいと思います。もちろん東京の洗練されたフラは美しいです。ですが山形のあの美しさは他に類をみない、艶やかさというのでしょうか。ぜひご覧いただきたいです。

苦しかった日々も皆さんに助けられ何とか乗り越えました。今は子供は社会人となり、私の代わりに?東京で暮らしています。ですから時々遊びに行っています。

そして、今また新たな挑戦の旅に出ようとしています。夢は諦めなければ叶うという言葉を信じて。

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